躁鬱と希死念慮

私は死にたいわけではない。
むしろ、今は死にたくない。
それなのに、希死念慮は私の意思とは関係なく、死の場面を頭の中に流してくる。

それがいちばん怖い。
「死にたい私」がいるのではなく、「生きたい私」が、病気の生み出す衝動に脅かされている。死にたいと言う人がたくさんいる。私も昔そうだった。こんなに毎日辛いなら、生きていない方が良いと考えていた。私は今生きていたい。生きていたいけど、希死念慮に殺されそうになる。

躁状態では、世界が限りなく明るく見えた。食事は1日1回少量で済んだ。あの頃は今より20キログラム痩せていた。睡眠も短時間で十分だった。スキップが止まらず、歌い続ける。身体は疲れを知らず、未来には何でもあるように思えた。けれど、その高揚は私の身体と心を壊した。もうあの頃には戻りたくない。

それでも、薬で波を抑えた人生には、もう二度と、あの幸福感が来ない絶望が存在する。

まるで、ブレーキを踏まれた自動車に乗っているような感覚で、アクセルが踏まれることはもうないことを知っている。諦観と絶望、苦しみ、書いていても泣きそうになる。

鬱の底でも、軽躁の頂上でも、希死念慮は現れた。底では失った時間に絶望し、頂上では、どうせまた落ちるなら今のうちに終わりたいと思った。

私をこの世界につなぎ止めているのは、立派な人生目標ではない。人だ。夫、家族、友人、指導教員、先輩後輩。私の祖母は自らこの世を去ることを選んだ。小学生の頃、同居していた高齢の祖母が、自宅で首を吊っているところを母親と発見した。その後私の家族はどうなったか。

私は、残された人がどう壊れるのかを知っている。だから、大切な人に同じ傷を与えたくない。私の砦は、人なのだ。

希死念慮は今も完全には消えていない。幸せな日にも現れる。けれど、私はそれが自分の本心でないことがわかっている。これは私の望みではなく、私の中を通り過ぎる病気の症状だ。

マインドフルネスに出会ってプラクティスを続けるうち、もう一度自動車のアクセルが踏めるかもしれないと思えたことが一度ある。自分をコントロールできたような感覚。それは私の感覚にすぎず、実際は軽躁状態だったにすぎないのかもしれないが。

マインドフルネスでもどうしようもできない時がある。その時はこのブログに戻ってこようかと思います。元気があれば。誰かに見て欲しいわけではないけど、書いていると自分の気持ちを客観視できて、少し落ち着くような気がするので。

希死念慮に殺されそうな人、それに頑張って耐えて生きている人たちに少しでも楽な瞬間が訪れることを願っています。

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